のらねこの気まま暮らし

Perlについてとか、創作についてとか、発展途上の自分と向き合う記録。

隣の世界では金環日触が見られたそうだ。

土砂降りの雨の中を歩いていた。
見覚えのある道ではない。狭い道路にバスのような大きな車がせわしなく行きかっている。
郷愁のような、どこか懐かしい道だった。夢というのは、たいてい懐かしさを感じるものだが、僕はなんとなく大学の帰り道だと思っていた。
土砂降りの中、バスに乗るという選択肢があるにもかかわらず、僕は歩くことを選んだ。
何故かはわからない。でも、歩こうという意志があったのは間違いない。僕は歩いていた。
道を曲がり、見知らぬ下り坂に入る。
雨は一層強くなり、足を止める。
どうやら僕はレインコートのようなものを着ているらしく、フードをかぶると僕をたたく雨音がうるさくなる代わりに、雨に打たれる感覚が減った。それでも、雨はやはり激しく打ち付けてくる。
目の前には、見慣れた僕の自転車があった。
狭い十字路にポツンと止められた、緑色の自転車。
大学時代に使っていたものではなく、今僕が持っているロードレーサー。後輪には見慣れない黒く大きな鍵がついている。
僕は振り返る。
後ろには、なぜか僕を邪魔だといわんばかりに自転車に乗った人たちが並んでいる。
通れない、そこをどけ。
視線がそう言っているように思えて、僕は素直に、無言で道を譲る。
その人たちが去るのを見送って、僕は、自分の愛車のサドルを持ち上げて前輪だけを引いて歩き出す。
さすがにこのまま持っていくのはつらい、と思ったところでマンションが目に入る。
見覚えなどない。ただ、空の多い駐輪場が目に入って、ここに自転車おいておこうと思った。
はたして、住民でない人の自転車はどのように扱われるのだろう、という疑問に陥りながら足を向ける。
――そこで、僕は目を覚ました。


今朝見た夢の話。
どうやら外は明るいようなので、朝が来たようだが、どうにも眠気が覚めない。
ああ、そういえば金環日食があるんだったな、と思いつつ布団から起き上がれない。


外が明るいということは、おそらく日食はもう終わっているだろう。
なんてことはない。
金環日食が行われたところで、僕の人生にはさしたる影響はないのだ。
日が昇らず夜の世界に閉じ込められたわけでも、周囲の人たちが僕のことを忘れていたり、僕が別世界に迷い込んだわけではないのだ。


多くの人がTwitter上で日食についての話題をPOSTしている。
そんな時に僕は、今朝見た夢を思い出している。


乗り物を拒み、土砂降りの雨の中、わざわざ遠い道を歩こうとする自分の姿。
泥臭い生き方である。あるいは、僕はそっちの方が楽だと思ったのか。


いいや、無駄な思考だ。
夢とは脳内の情報整理の合間に見る記憶の断片だ。普段思い出さないような世界のどこかの景色を断片的につなぎ合わせたものでしかない。


偶発的に生まれたそれに意味を求めるというのはナンセンスだ。
たとえ、その風景に一抹の悲しみに似た何かを覚えたとしても。


夢は夢でしかない。
僕が金環日触を見逃したことを、惜しいとも思っていないのと同じように、僕の現実には一切なにも影響しない。これは記憶の断片の寄せ集めから作られた、何の意味もないものだ。


でも敢えて言うなら。
まだ歩き続けようと、それが自然なことのように雨の道を進もうとした自分の姿が、少しうらやましくあった。


こんな風に思うのは、妹と母と友人に言葉のナイフでざくざくと心臓を抉られたせいだろうか。
自分の弱さをさらけ出すのは辛い。知られるのも辛い。でも、意見をもらうことができた。
傷つくのは当たり前だ。それを避けているのは他ならない自分だったのだから。

だから、そう。
もしかしたら、金環日触を見ずにこの夢を思い出し、こうして記事に残すことには、それを見るコト以上に価値があったのかもしれない。
否、価値あるものにしなければならない。
何十年に一度。その偶然を無駄だと断じるより、その何十年に一度の偶然以上の価値があったと、何十年後に笑えるように行動すべきだ。


だから僕は言う。
別に金環日触が見れなくて悔しかったわけじゃないんだから!!!