螺旋模様の無限軌道
立て続けに日記の期間が開く、というのは僕の人生において珍しいことではない。
手書きのいわゆる「日記」は続いた試は過去にも未来にもないだろうが、ことネットにおける日記やブログといったものは、数週間から数か月続く。
過去に書いたはてなダイアリーも、PlayNCのブログも、その前にやっていたMMOの日記も結構な期間続いていたと思う。
つまり、飽きたのだ。
記事を書くことに。
繰り返し続けているのだから、前触れとか前兆とかは予測できる。
なんで書かないのかとか書く気が起きないとかの説明もできる。人に理解してもらえるかは別として。
一応、そんなことも予想されたから対策はいくつか練っていた。
目標立てもそうだし、はてなブログなら他者から何かしらのレスポンス…自分の独りよがりと自己満足だけで完結しないだろうという淡い期待も込めていた。
だいたいその通りに進んでいた。
後半に関しては、書きたいことを書いていた。ぶっちゃけ楽しいし、言いたいことをいうのは気持ちがいいものだ。
しかしだ。
いつだって僕の手を止めるのは、僕自身の心の方だ。
「これ誰得?」
はるか以前から存在する悪魔の僕。怠惰な僕。それに何の意味があるの、と問いかけるもう一人の僕。
いまだに打ち勝つことのできない否定的な僕の一面。
何かしようとしたときに、「それはやるべきことなのだろうか」と考えるのは正しい。
何も考えず実行して、それで大きな損害を出してばかりいたらいずれ破滅する。
それは防衛の本能なのかもしれない。
実際、世の中には挑戦しても無駄だったり、望んだ成果を得られない場合が多々ある。
やる前から、ああやっても無駄かもしれない、となんとなくわかる。
手に持ったリンゴが手を放したら落ちるかどうかは、やってみなければわからない。
知識として重力があるというのを人は知っているが、本当にそういう力があるのかは、その実例を知らなければわからない。
挑戦、試行というのは、何かを得るためには必要なことだ。
リスクがある。けれども、リスクを超えて何かを得ようとする志が無いと、人はただ怠惰に過ごすだけだ。
失敗を恐れて。
僕が何かに挑戦しようとするときには、たいていリスクを考えない。
臆病だから、真面目に考え始めたら絶対あきらめてしまう。
だから、僕は考えないように、ただがむしゃらに進むべきだった。
けれども、ある程度ぼくの、天使――というのはふさわしくないな。子供、というべきか――の一面は、飽きやすい。
今回のコトもそう。
どうやら、僕を動かす原動力たるその心は、季節外れの冬眠か、あるいは五月病にでも罹ったとでもいうのか。
やたら表にでてこない。悪魔――こっちは大人というにはすこしだらけすぎるのでこのままで――の意見にたやすく屈してしまう。
僕を動かすのは論理や条件ではない。
僕は自分の欲求に従う方がやる気が出るらしい。
どうにも、いまの僕の欲求を刺激してくれるものがなさ過ぎて、怠惰な思考をぐるぐると回転させているわけだ。
さあ、今日も仕事をしよう。